2018年06月
☆第85回東京優駿☆
2018年5月27日に行われた第85回東京優駿(日本ダ−ビ−)は、生涯忘れ得ぬかけがえのない2分23秒となりました。
競馬の神様が取り計らってくれたのか、ワグネリアン号に騎乗した福永祐一騎手が、ついに、ダ−ビ−ジョッキ−となり、本人も言っていた福永家の悲願を達成しました。
競馬をご存知ない方も一度は聞いたことがあるかと思いますが、福永祐一騎手の父は、元祖天才と称される福永洋一元騎手です。
福永洋一元騎手の天才ぶりは、並外れており、馬の潜在能力を引き出すことに長けた唯一無二の騎手だと思っています。
なにせ、走らない馬でも福永洋一元騎手が騎乗すると勝ってしまい、騎手の間でも何故馬が走ったのか判らないそうです。
また、騎乗はいつも全力で馬を追い、変幻自在、天衣無縫で、どんな乗り方をするのか常にワクワクして観戦したものです。
そんな福永洋一元騎手を子供ながらに毎回全力で応援し続けた中でおこった1979年3月4日の落馬事故は、とてつもない衝撃を受け、テレビの前で、しばらく言葉を発することも動くこともできなかったことを鮮明に覚えています。
その年は、お手馬であったカツラノハイセイコに騎乗し、ダ−ビ−ジョッキ−になるものと勝手に決め付けていたこともあって、カツラノハイセイコがダ−ビ−馬になった時は、全力で応援したものの複雑な気持ちになったものです。
当時は、今とは違い、簡単に情報を得られる時代ではなかった為、福永洋一元騎手の状況は限られたメディアからの情報でしか知ることは出来ず、騎手への復帰をひたすら待ち望む日々のなかで、放送されたリハビリの闘病生活は、復帰への道程は非常に厳しい状況であることは想像に難くないことを知り、リハビリの傍らで当時幼かった福永祐一騎手が、お父さんお馬さんから落ちちゃったと無邪気な笑顔を振りまいていたことが今も強烈な印象として焼きついています。
競馬新聞の馬柱に福永の文字を見なくなり、それが当たり前であると慣れてしまっていたころ、福永祐一騎手が、志なかばで身を引くことになってしまった天才の父天才福永洋一元騎手の息子という十字架を背負い騎手になる決断をしたとのニュ−スを聞いた時は、本当に跳びあがるほどうれしく思い、そして勝手ですが、福永祐一騎手に夢の続きを追いかけさせてもらうことにし、全力で応援していこうと決めました。
観戦だけではなく、馬券においても全力で応援し続けたものですから、馬券は良い結果には至ってはおりませんが、今回、念願であったダ−ビ−ジョッキ−福永騎手誕生を見させてもらうことが出来ました。
福永洋一元騎手が一番勝ちたかったレ−ス ダ−ビ−のインタビュ−で、父が最もみたかった景色を目に焼き付けましたと言った瞬間、嗚咽をもらしながら大号泣したファンは多かったのではないかと思います。
今回、ダ−ビ−ジョッキ−という一つの夢を達成したわけですが、五大競争そして八大競争の制覇、更には凱旋門賞の勝利ともっと大きな夢を追いかけさせてもらい、引き続き全力で福永家を応援しようと思います。
最後に福永祐一騎手、調教師、馬主そして関係者の皆さん本当におめでとうございました。
そして、このような感動と幸せを頂きまして、本当に有難うございました。
投稿者:Y.F
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2018年06月05日 | このページのURL | コメント (0) | トラックバック (0) |